今日は、珍しくも家族と離れ一人きりでバレエ公演に行ってきました。
僕が”バレエ”というと、たいていの人は意外そうな顔をします。高校生の頃、ボリショイバレエ団やキエフバレエ団の公演に小遣いを貯めてやはり一人で行っていたときは、友人達から完全に変わり者扱いされてました。
実のところ、僕とバレエとの付き合いは、絵との付き合いと同じくらい長いのです。
僕がまだ小学校に通う前の我が家はちょっと変わった家で、個人の住宅であるにもかかわらず建物の真ん中に大きな板張りの部屋があって、そこが地域の文化教室のようになっていました。教室はそろばんと絵とバレエがあり、いずれも満杯に近い生徒で賑わっていたように記憶しています。僕はそろばんと絵の教室に通っていましたが、一番心引かれていたのはバレエ教室で、姉がレッスンを受けている傍ら、蓄音機の横でじっと立ち尽くしていました。自分も習いたいという気持ちだったのは確かですが、当時男の子がバレエを習うという風潮がなく、何度か先生に、おそらく冗談半分だったのでしょうが、「やってみる?」と誘われても、おずおずと引き下がるばかりでした。
しかし高校生になってから本格的なバレエ公演を見てみたいという気持がつのり、たまたま札幌までやってきたボリショイやキエフの公演を見に行ったわけです。こうした大型の公演は、そのころまだ真新しかった札幌厚生年金会館で行うのが常でした。
高校卒業後は美術の道に進むことを決めましたが、わけあって半年で断念し、するとまたもやバレエ熱にうかされて、今度は見るだけでなく自身でやってみたいと教室を捜しましたが、適当なところが見つからず、結局入ったところは社交ダンスの教室でした。それでも僕にとっては念願のダンス教室でしたので、一年ほど熱心に通い、コンクール出場の誘いを受けるくらいにはなりましたが、残念ながら時間切れ、また別の目的のためにフランスへと発ちました。
フランスはこと芸術の分野に関しては天国のような国です。美術学校の学生証があればほとんどの美術館が入場無料ですし、あらゆるコンサートや演劇や映画に格安の学生料金が設定されています。何よりもすごいのは,見るに値する演目が毎日のようにどこかで行われているということです。パリの下宿の近くにあったシャトレ劇場は、モダンバレエの拠点のようなところでしたから、僕は毎週のように通いつめて、しばらくクラシックバレエから遠ざかり、モダンバレエの世界にのめりこみました。なんだか商業的な臭いがするモーリス・ベジャールより、そのころメジャーになりつつあったローラン・プチやカロリン・カールソンが好きでした。
少々話し変わって、ボザール工房では3年毎に、パリを中心にしてステンドグラスや美術館を見てまわろうという研修旅行を実行しています。今年は第7回目を9月に計画していますが、その話は別の機会にするつもりです。
6年前の第5回研修旅行のとき、パリの新オペラ座でバレエ公演を鑑賞しました。演目は「ドン・キホーテ」、あのルドルフ・ヌレエフの演出によるものでした。(ヌレエフは、ニジンスキーの再来とまで言われた著名なダンサーで、パリオペラ座の芸術監督をつとめていましたが、1993年にエイズで亡くなりました)公演の内容はさておき、このときの旅行参加者の中に桝谷まい子さんという一人のバレリーナがいたということを特筆したいのです。
時は4月の中頃で、彼女は高校を卒業したばかりでした。無邪気で明るく、優しく気がきいて、一緒にいる誰もが幸せな気持になりました。表情や動作のひとつひとつに意味があり、常に体全体で何かを表現しているように見えました。僕を含めた他の6人の旅行者は、彼女を「まいちゃん」と呼んでかわいがりました。
まいちゃんは、自分のことも包み隠さず何でも話してくれましたが、札幌でバレエスタジオを主催する母上には進学を勧められたものの、色々悩んだ末にバレエに専念することを決めたと言っていました。
パリでは彼女の体験入学に付き添って、シャンゼリゼ通り近くにあるバレエ学校の授業に立ち会う機会を得ましたが、子供の頃に慣れ親しんだ練習風景とあまりにも似かよっていて、突然自分の背が縮み蓄音機の横に立っているような気がしました。あの頃意味も分からず聞いていた”アン・ドゥー・トロワ”や”エトワル”、”プリエ”などのバレエ用語は全部フランス語だったんだと再認識しました。
その後彼女は言葉通りバレエの道を一直線、2004年には北海道バレエコンクールシニアの部で金賞、北海道知事賞も受賞し、さらに全国的なバレエコンクールでも数々の入賞を果たしています。
2005~2006年には米国のコロラドバレエ団に所属し、帰国後も様々な活躍の後、本日、僕にとって思い出深い札幌厚生年金会館での公演「ジゼル(全2幕)」に主演しました。
思いつくままに目的を変え、曲がりくねって前進と後退を繰り返し、何もかも中途半端で終わらせた僕の青春時代とは 大きな違いです。
あのときパリの新オペラ座で 一緒の客席にいた「まいちゃん」が、今日はあちら側で、しかも舞台の真ん中で大きな拍手を浴びながら生き生きとして踊っていました。感無量!
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アメリカがイギリスからの独立を宣言した日から、ちょうど200年後の1976年7月4日、僕はフランスの田舎町の運河沿いに引き込まれた貨車の中で、酔いつぶれて昼寝をしていました。
前年に、フランスは下ノルマンディー の首都カンの大学へ入学していた僕は、一年間の勉強を終え、パリ大学のフランス語教授法の学部に転入することに決めていました。学費の仕送りはあるものの、引越しの資金が不足していたため、アルバイトをすることにしました。フランスでは学生のアルバイトは禁止されていますが、夏休みの期間中は解禁となります。大学が紹介するアルバイトは人気があるものから順に募集を締め切っており、出遅れた僕には倉庫の重労働しか残っていませんでした。
アルバイトの初日、渋々やってきたという風体の大学生が僕の他に3人いて、現場監督らしき人物から、正規の労働者4名に引き合わされました。背は小さいが、どこかに威厳を感じさせる白髪混じりの監督は、労働者の全員とひとしきり雑談をした後、どこかへ立ち去りました。
仕事内容は、貨車の中に詰め込まれているスキムミルクの袋を、倉庫まで運んで積み上げるという単純作業です。労働者の4人は、20㎏詰めの平べったい袋を2袋重ねて軽々と持って見せましたが、僕以外の大学生3名は、右往左往、四苦八苦してミルクの袋と格闘するはめに陥りました。僕はというと、痩せて非力そうに見えるのに、労働者と全く同等に袋を持って見せたので、「なかなかやるな」「お前は俺達の仲間だ」と口々に賛辞をもらい、すっかり気を良くしていました。
実はフランスへ来る前の一年間、僕は旅費稼ぎのためにコンクリート工場で働いており、スキムミルクの袋とほぼ同じ形状と重さのセメント袋は扱いなれていたのです。手だけで持とうとせずに、腰を落とし膝に力を入れるというのがコツです。雪掻きの要領にも似ています。
アルバイトチームの長に任命され調子に乗った僕は、他の大学生に持ち方を指導し、指示を与え、自らもお手本になるべく張り切って働きました。 一休みしようかという頃、監督が現れ、遠くからこちらをじっと見ているようなので、ますますスピードを上げて働くと、監督が近づいてきて僕に声をかけました。顔を見ると険しい表情をしており、どうも褒めようと思っているわけではなさそうだということは分かりました。
「お前はいったい何をしようとしてるんだ?貨車の中にある荷がどれだけあるか数えてみろ。あれは今日一日分の仕事だ。このままの早さで続けたら昼前に全員失業するぞ!」
カルチャーショックでした。限られた時間の中で、できるだけ多くの仕事をこなすのが良しとする日本の常識的な価値観が通用しません。決められた仕事をできるだけ時間をかけて大勢でやるのが良いとする、そういう価値観が世の中に存在しているということをその時初めて知りました。
その後はしゃべくりながらだらだらと仕事をして、失業に至ることなくやっと昼になりました。貨車の中で食事をすることになり、労働者の一人から、たまたま年齢を聞かれたので、ちょうど今日が僕の誕生日で23歳になると言うと、「おう、そうか。じゃ皆で祝わなくちゃな」僕は大きな陶製の壺を渡されると、貨車の反対側に広がるとうきび畑の農家までシードルを買いに行かされることになりました。
シードル(cidre)は、ノルマンディー地方名産のりんご酒で 、つまりサイダー(cider)のことですが、日本のサイダーとは違いアルコール炭酸飲料です。この地方の農家では自家用シードルを作っているところが多く、気軽に売ってもくれますが、市販のものより度数が高いということをその時はまだ知りませんでした。
監督に見つかったら大変だぞと脅され、まだ30センチくらいにしか成長していないとうきびの間を這うようにして数百メートル先の農家に到着、壺いっぱいの冷たいシードルを持ち帰りました。
午前中の重労働、空腹、暑い日ざし、誕生日、カルチャーショック・・・僕はすこぶる口当たりの良いシードルを飲みすぎて、貨車の中で横になったきり起き上がることができませんでした。「寝かせとけ。こいつはもう充分働いた」という労働者の声が遠くに聞こえました。
ヨーロッパ諸国では、近頃「連帯経済」という言葉が広く使われていて、省庁の名称にも組み込まれているくらいですが、考え方自体はマルクス以前から存在していたものです。簡単に言うと、世の中の食料も富も仕事も、皆で分け合って誰もがそこそこの暮らしができるようにしようじゃないか、ということです。フランスもイギリスもドイツもイタリアも、ヨーロッパの国々にはこの考え方が根強く残っており、最近になってまた強調されるようになりました。
一方、そのヨーロッパ諸国を親に持つアメリカは、独り立ち以来、その旺盛な食欲とパワフルな行動力で大きく成長し、親とは全く違う価値観を持った大人になったように見えます。体力と知力に優れた者(あるいは見かけが良いだけ、運が良かっただけでも)が富を独り占めにすると、それはアメリカンドリームとして賞賛の対象であり英雄扱いされます。政治はもちろん、エネルギー問題や食料、医療、スポーツや芸術、環境問題でさえも企業の利潤追求の手段になっていて、集団的パラノイア(偏執狂)の様相を帯びてきています。ミルク倉庫の監督がこれを見たら、「お前はいったい何をしようとしてるんだ?」と怒鳴ること間違いなしです。
7日から始まる洞爺湖サミットは、アメリカとヨーロッパ諸国の価値観の対立が浮き彫りにされることと思いますが、アメリカの盟友とも飼い犬とも言われる日本はどちらの道を歩もうとするのでしょうか。
ちなみに2076年7月4日には、月が地球政府からの独立を宣言します。ロバート・A・ハインラインのSF小説「月は無慈悲な夜の女王」の中での話しですが。
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